磐城の戦い(いわきのたたかい)は、戊辰戦争時、磐城地方でおこった戦いの総称。
六月十六日、薩摩・左土原・大村藩兵が平潟に上陸した。翌日、仙台・平・泉・遊撃隊が平潟の奪還を試みたが敗走し、関田付近で戦闘した。二十日には平潟に柳川・岡山藩兵が上陸した。二十四日、中村兵が平城に到着。この日湯長谷に駐屯していた遊撃隊と仙台兵は、大島の住民が西軍に好意的だとして放火した。その帰りに植田宿を焼き払い、八幡山にこもって抗戦したが敗れ、新田宿に引きあげた。
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街道
二十八日午前、西軍は植田で二分し、一隊は山道を通り湯長谷・平に向かい、もう一隊は浜を通り平に向かった。泉館はすでに藩主一行が退却した後だったため難なく占領した。二十九日、湯長谷兵の主力は高野方面にいたために湯長谷館も難なく占領した。東軍は湯本に放火、仙台兵、中村兵とともに浜街道の堀坂に陣をしいた。西軍は直ちに堀坂に向かったが火事で通れず、東に迂回し東軍の側面から攻撃したので東軍は平付近まで退却した。米沢・仙台・中村兵は稲荷台に砲陣をしいて西軍を迎え撃ったが、日没後は両軍引きあげて、西軍は湯長谷に宿営した。
浜
浜付近では、二十八日に仙台の増援部隊が中之作に上陸し、駐屯していた部隊と合流した。二十九日朝、泉奪還を狙う東軍が前進した際、小名浜冨岡にて西軍の砲撃を受け、仙台隊長富田小五郎以下三十名余りが戦死した。中之作に逃れた仙台兵は海上で戦死した者が多く、生存者は三分の一になってしまった。
二本松の戦い(にほんまつのたたかい)は、戊辰戦争における東北での戦いの一つ。
慶応4年(1868年)3月、新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝は、仙台藩をはじめとする奥羽諸藩に会津藩の討伐を命じた。奥羽諸藩は会津藩の窮状に同情を寄せ、奥羽全体に関わる問題と捉えた。閏4月11日に白石城に参集し「諸藩重臣副嘆願書」を副えて、会津藩の「謝罪嘆願書」を取り次ぐも、翌12日、新庄に駐在する総督府参謀世良修蔵にすげなく退けられた。この動きに対し世良は19日、新庄に駐在する大山格之助参謀に宛てて、「奥羽諸藩に会津討伐の意志がないこと、したがって奥羽皆敵と見て逆撃の大策としたい」旨の密書を送っていた。こうした世良の不遜な態度に憤慨した仙台藩士姉歯武之進・赤坂幸太夫らが30日、福島・北町の旅館に泊まっていた世良を暗殺するに至る。5月3日、仙台藩・米沢藩・秋田藩・盛岡藩・二本松藩など奥羽25藩による奥羽列藩同盟が結成され、政府軍に反旗を翻した。さらに北越の長岡藩・新発田藩など7藩が加わり、ここに奥羽越32藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
5月16日、白河口の戦いを皮切りに、海岸線の平潟から平、会津国境、北陸方面へと戦線は拡大する。諸藩は戦術の稚拙さと火力兵器の差によって各戦場で敗退し、退却か降伏を余儀なくされていった。7月に入ると秋田藩が同盟を離脱、白河方面では三春藩が政府軍へ寝返った。7月27日、政府軍は三春藩兵を案内役として本宮まで進軍する。
政府軍の侵攻が早いと判断した二本松城は防衛を固めたが、藩兵のほとんどが白河方面に出撃しており、城を守っていたのは少数の兵であった。家老丹羽一学は、藩主丹羽長国を米沢に逃がし、藩士の60歳以上の老人と12歳?18歳の少年を召集し二本松少年隊を編成した。砲術師範木村銃太郎を隊長とする同隊は、城下南方の大壇口の小高い丘で守備に就いた。29日早朝、まず東方の供中口が政府軍によって破られる。大壇口でも激しい戦いが展開されたが、少年隊士の殆どが戦死した。昼過ぎには丹羽一学が本丸に火を放ち自刃した。
戦死した少年隊士の墓は、二本松歴代藩主丹羽氏の菩提寺大隣寺にある。
母成峠の戦い(ぼなりとうげのたたかい、慶応4年8月21日(グレゴリオ暦1868年10月6日))は、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。会津藩境の母成峠(現・福島県郡山市・猪苗代町)を守る旧幕府軍700が新政府軍2,000と戦うが、兵力の差で勝てず敗走し、新政府軍は若松城下に殺到する結果となった。
江戸城無血開城の後、会津戦争が開始され、旧幕府軍は北関東で新政府軍を迎え撃ったが、白河口の戦いで敗れ、7月29日(グレゴリオ暦9月15日)に二本松城が陥落した。次の段階として、新政府軍では大総督府の大村益次郎が仙台・米沢への進攻を指示したが、参謀・板垣退助と伊地知正治は会津攻めを主張した。雪の降る時期になると新政府軍が不利になるため、その前に会津を制圧したいというのが主な理由であった。板垣・伊地知の意見が通り、新政府軍は会津へ向かった。
会津へ入るには何か所かの街道があるが、その中で会津藩が特に警戒して防御を固めたのは会津西街道(日光口)と勢至堂峠(白河口)、さらに二本松と若松を最短で結び、当時の主要街道であった中山峠(二本松口)であった。会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測した。しかし新政府軍はその裏をかき、母成峠に主力を進め中山峠には陽動部隊を派遣した。もっとも大鳥圭介は新政府軍主力が母成峠に向かったことを的確に把握していたが、いかんせん手持ちの兵力が少なすぎた。
経過
8月20日に坂下で前哨戦が行われた。伝習隊が奮戦する一方で、会津藩兵等は敗走したため、伝習隊は殿を務め白兵戦に慣れないため大損害を受けたが、新政府軍の進撃を食い止めた。
8月21日、濃霧の中、新政府軍2,000は本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指した。新政府軍は薩摩藩兵と土佐藩兵を主力とし、他に長州藩兵と佐土原藩兵がいた。母成峠の旧幕府軍守備隊は会津藩兵、仙台藩兵、二本松藩兵、そして伝習隊や新選組ら700であった。戦いは早朝に始まった。旧幕府軍の指揮官は歴戦の大鳥圭介であり、兵力を縦深陣地に配備し、その配下の伝習隊は善戦した。しかし新政府軍の側面攻撃が功を奏し、敗色が濃くなるに及びまたもや会津藩兵等は伝習隊を置き去りにして逃走した。やがて峠は新政府軍が制圧し、夕方頃にはほぼ勝敗は決した。前日に引き続き再び殿となった伝習隊は大打撃を受けた。
母成峠を突破した新政府軍は怒濤の勢いで猪苗代城へ向けて進撃し、猪苗代城代・高橋権大夫は城に火を放って若松へ撤退した。伝習隊は諸所に火を放ち新政府軍の進撃を遅滞させることを試みる。しかし8月22日に猪苗代に到着した新政府軍はそのまま若松へ向けて進撃を続け、川村純義の隊は猛進して十六橋を突破した。会津藩は白虎隊などの予備兵力をかき集めて出陣させたが、新政府軍は戸ノ口原の戦いでこれを破り、23日朝には若松の市街地へ突入した。
影響
会津藩にとって、藩境がわずか1日で突破されたことは予想外のことであった。越後口や日光口では藩境あるいは藩外での戦いが続いていた頃である。藩主・松平容保自ら滝沢本陣まで出陣して救援軍を差し向けたが全てが遅かった。結局は若松に突入され、白虎隊や娘子軍、西郷頼母一家に代表されるような悲劇を引き起こすことになった。一方で、相次ぐ重税により藩に愛想を尽かしていた領民もおり、お上の戦に対しては他人事の様子で、中には新政府軍に協力する者もいたことが記録にある。
会津軍は籠城を余儀なくされ、他の戦線でも形勢不利となっていく。会津藩の降伏は1か月後のことだが、会津藩の劣勢が確実な状況になったことで、仙台藩・米沢藩・庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力の諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏を表明し、奥羽での戦争自体が早期終息に向かった。母成峠の戦いが会津戦争ひいては戊辰戦争全体の趨勢を決したと言えよう。
現在、母成峠には、古戦場碑や戦死者の慰霊碑が建てられ、また当時の土塁等も残されている。
伊地知正治 - 薩摩藩、新政府軍指揮官。
板垣退助 - 土佐藩、新政府軍指揮官。
川村純義 - 薩摩藩、母成峠の戦いの時に新政府軍左翼隊長。十六橋を確保し勝利を決定的にした。
大鳥圭介 - 幕臣、旧幕府軍の事実上の指揮官。
猪苗代町 - 母成峠のある自治体。