2009年06月29日

農耕とはある共同体の食物供給の一端や全体

農耕(のうこう)とは、ある共同体の食物供給の一端や全体、及び他の有用植物の需要を補うために、田畑に作物のもととなる種子、苗、球根などを植え、育て、継続的、及び循環的にその生産をあげていくための活動や実践。

農耕の起源については諸説あるが、今から約15000年ほど前、中国の長江流域で稲作を中心とした農耕が始められていたことが最新の発掘調査で確認されている。またレバント(シリア周辺、肥沃な三日月地帯の西半分)では、テル・アブ・フレイラ遺跡(11050BP, 紀元前9050年頃)で最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。それ以前は採集によって野生の穀物や豆類を集めており、たとえばムギ類はアナトリア高原の南、ハブール川流域で野生種が利用されていた。
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人類はそれまでの約300万年もの長い間、採集、狩猟、漁労などによって生計を立ててきたとされるが、それらとともに新たに農耕が始められた理由として食料難が一つの説としてあげられている。農耕は大量の水が要り、ついでその管理も必要となってくるため、河川周辺など、定期的に水の供給が得られる場所が農地として選定されることが多い。

農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。そして政治と経済、ついには国家の誕生へと至る事となる。

さらに作物の管理や分配のための計算、気候の変化と農作業の日程を知るための暦法(天文学)、農地管理のための測量などが必要となり、これらが数学の基礎となった。

2009年06月11日

催眠療法(さいみんりょうほう)とは

催眠療法(さいみんりょうほう)とは、Hypnotherapyの訳語で、催眠を用いる精神療法の一種である。

必ずしも病気治療に限るわけではなく、その限りにおいては医師以外でも行ないうるので、催眠治療と訳すのは誤り。

催眠はそれ自体安全なため欧米でも国家資格はない。欧米では、療法家が協会を結成し、催眠療法士を認定する仕組みが一般的になっている。
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日本の医師免許取得に催眠療法の理論や技能等は必要とされないが、米国には催眠療法の博士号が存在する。一方、日本では資格としては、日本催眠医学心理学会認定の「催眠技能士」等がある。

催眠関連の学会の中には、催眠を娯楽の対象とする計画・活動に学会会員が参加・協力することを倫理綱領によって禁じているものもある。

2009年06月07日

違法競走型への移行と高年齢化

仲の良い不良少年同士が組織やルールといった従来スタイルに囚われずに、多くても十数名程度の小集団で適当に集まって散発的な暴走行為を行うケースが主流となった。これらでは、従来の「ヤンキースタイル」をしているケースは稀で、大集団となる傾向は見られない。また、バイクのアクセル音でリズムを刻むことを追求したり、ただ単に「乗りたい」というだけの共同危険型暴走族や、走りを重視するゼロヨンやドリフト族などの違法競走型暴走族に姿を変えつつあるなど、社会への反抗といった思想性や既存の特定集団への帰属意識は薄れている。1990年代以降は、違法競走型暴走族の存在感が相対的に増したことで、彼らが高速道路や山岳道路を占拠する状況が社会問題として取りざたされることが増えてきた。

一方で、地方では「ヤンキースタイル」が社会的反抗の様式として伝統的に残っている地域・集団もあり、ある種の「モラトリアム・ファッション」として共同危険型暴走族の形を取る少年が見られる。ただ、これらは1980年代の懐古趣味スタイルという位置付けで、個人が単なるファッションとしてそれを行っているに過ぎないケースも多く見られ、やはり思想背景は含まないものとなっている。

社会環境としても、地域の繁華街や観光地・イベントで周囲を威嚇するなどの行為への対策として、2002年に広島市で暴走族追放条例が施行[7]されたのを皮切りに、全国の自治体で暴走族の取り締まりを目的とする条例を制定する動きが広がった。2004年11月1日には、道路交通法改正により、共同危険行為の摘発に際して必要だった被害者の証言が不要となり、現場の警察官の現認のみで逮捕が可能となった。全国のグループ構成員の総数は、1982年の4万2510人をピークとしてその後は減り続け、2005年には1万5086人となっている。
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また、若者離れの影響により、従来であれば後輩を加入させることで「成人したら引退する」といった慣習があったとされる共同危険型暴走族では、既存構成員が成人になった後もずるずると所属し続けたり、勢力維持のために成人OBを呼び戻す例が増えるようになった。警視庁の調査結果によると、暴走族構成員の平均年齢は上がってきており、2006年では6割が成人であるとする統計もある。2000年前後からは、「旧車會」と称して、共同危険型暴走族を引退した後も楽しさを忘れられない者や、少年期に憧れながら加入していなかった者などの成人が集まり、自らの少年時代に新車だったバイク(現在では旧車)を改造して活動する成人版・共同危険型暴走族も現れるようになった。加えて違法競走型暴走族の場合は、もともと共同危険型暴走族よりも年齢層が高めな傾向がある。相対的に少年層よりもこれらの活動のほうが活発という地域も発生し、30歳代から40歳代の成人の検挙や、2008年には50歳代2人を含む暴走族グループが検挙されるなど[8]、暴走族の平均年齢を押し上げる要因となっている。

2009年04月24日

ラージャ・ヨーガ (Raja yoga)

「ラージャ」は「王の」という意味であり、神を悟るための本格的なヨーガといえる。「マハー(偉大な)・ヨーガ」とも呼ばれる。根本教典はパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』(紀元後2-4世紀)。第2章にはラージャ・ヨーガの段階について記述されており{1.ヤマ(禁戒)2.ニヤマ(勧戒)3.アーサナ(座法)4.プラーナーヤーマ(調気)5.プラティヤーハーラ(制感)6.ダーラナー(凝念)7.ディヤーナ(静慮)8.サマーディ(三昧)}これら8つの段階からなることから、ラージャ・ヨーガをアシュタンガ(アシュ:8つ アンガ:枝、部門)・ヨーガとも言う。

今日アシュタンガ・ヨーガ=アーサナと受け取られているが、誤りである。

カルマ・ヨーガ (Karma yoga)
日常生活を修行の場ととらえ、善行に励みカルマの浄化を図るヨーガ。見返りを要求しない無私の奉仕精神をもって行う。カルマ・ヨーガの教典は『バガヴァッド・ギーター』。

バクティ・ヨーガ (Bhakti yoga)
神への純粋な信愛を培い、(グルがいる場合)グルを神の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。古代に実在し、その後神として崇められたクリシュナが開祖。バガヴァッド・ギーターは、バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの本質を謳っている。また、近代の大覚者ラーマクリシュナ・パラマハンサは、現代においてはこのバクティ・ヨーガこそ最も必要であると説いた。このヨーガを主軸に据えるグルの団体において、弟子・信者はグルの命令通りに動き絶対帰依することになるが、今なお存命中の大覚者であるサティヤ・サイ・ババやシュリ・チンモイは、弟子の病気などのカルマを引き受けることも行っているという。新興宗教の中でも程度の違いこそあれこのヨーガを取り入れている団体は多いが、間違ったグルを師と仰ぐと一生を棒に振ることにもなりかねないため、事前に十分調査をすることが重要とされる。このヨーガの行者をバクタ (bhakta) という。

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ギャーナ・ヨーガ (Jnana yoga)
高度な論理的熟考分析により、真我を悟るヨーガ。クリシュナムルティが有名。20世紀を代表する聖者の一人であるシュリ・ラマナ・マハリシは、このヨーガで大悟したとされているが、一般的に難易度の高いヨーガと云わざるを得ない。だが、巧く実践可能であるならば最も高度なヨーガとなりうるとの意見もある。このヨーガの行者はギャーニ(ジュニャーニ、jnani) 。

マントラ・ヨーガ (Mantra yoga)
マントラ(密教でいう真言)を使うヨーガ。ガヤトリー・マントラ、ハレークリシュナ・マントラ、インヴォケーション・マントラなどが用いられている。

ジャパ・ヨーガ (Japa yoga)
マントラ(特に、神の名)を繰り返し唱えるヨーガ。

クンダリニー・ヨーガ (Kundalini yoga)
ムーラーダーラに眠るというクンダリニーを覚醒させ、身体中の気道やチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガ。密教の軍荼利明王は、そのクンダリニーを象徴化したものである。別名ラヤ・ヨーガ。クンダリニーの上昇を感じたからヨーガが成就したというのは早計で、その時点ではまだ初期の段階に過ぎない。格闘家に愛好者が多い「火の呼吸」はクンダリニー・ヨーガの側面もあるがイコールではない。チベット仏教のトゥモ・ヨーガ、完成のヨーガや、中国の内丹術などとも内容的に非常に近い。

このヨーガを実践するにあたっては重大な注意点がある。クンダリニーが一旦上昇を始めると、本人の力だけではそれをコントロールできなくなることがある。具体的には、クンダリニーが上昇して頭部に留まってしまい、それを再び下腹部に下げることも、頭部から抜けさせることもできなくなり、発熱や頭痛、またそれが長期に渡ると、脊髄を痛めたり、最悪の場合精神に異常を来すことさえある。

従ってこのヨーガは、自己流又は単独実践は避け、然るべき師に就いて実践すべきとされている。「然るべき師」とは、単に知識豊富で多少の呼吸法ができる師のことではなく、自身がクンダリニーの上昇経験を持ち、且つそれを制御できる師のことである。そうでなければ上昇を始めた他人(弟子)のクンダリニーの制御は不可能に近い。更に師に就く場合、その師がどの師からの指導を受け、またその先先代の師はどの師なのか、少なくとも2、3代先の師まで辿れる師に就くことが望ましい。しかしながらそうした人物に出会うのは難しい。また、自らクンダリニーを制御できることを標榜する人物は、その時点で、クンダリニーに対する執着を棄てきれず、神に対して敬虔なヨーガの精神に反する生き方をしていると世間にアピールするようなものであり、そうした人物を師と仰ぐのは危険とする意見がある。しかしながら、クンダリニー云々を標榜できる人物でなければ制御は難しいとする意見もある。

このヨーガは段階が進むほど師を必要とするという意見があり、特にクンダリニーの体内自覚を感じてから先は、必ず師の指導の元にヨーガを実践すべきとされる。一方で、ある程度の段階に達すると師をそれほど必要としなくなるという意見もある。

このヨーガの効果は、ハタ・ヨーガの効果のように身体が柔らかくなったり、以前に比べて健康になったという、割合穏やかな効果に比べ、クンダリニーの上昇に伴うチャクラの開眼という劇的なものがあり、自分が超能力者や超人になったかのような錯覚を覚えてしまうことが往々にしてある。その故に、一度効果(クンダリニーの体内自覚)が出始めると、他のヨーガに比べて非常にのめり込みやすいという特徴がある。

クンダリニーの自覚が修行の完成と錯覚するのは危険である。クンダリニーの自覚と修行者の人格的向上とは無縁といえる。クンダリニーの自覚に修行の目的が置かれてしまっては主客逆転、本末転倒である。手段が目的にならぬよう修行者は努めねばならず、本来の修行の目的を達するならば、そうしたクンダリニーを始めチャクラなど肉体次元、生気次元へのこだわりを無くす事に努めることが先決とされる。

クリヤー・ヨーガ (Kriya yoga)
ヨーガ・スートラで説かれるラージャ・ヨーガの第二段階「ニヤマ」のうち、苦行、読誦、自在神への祈念の3つをクリヤー・ヨーガという。ここでのクリヤは浄化の意味ではなく、準備段階という意味。

2009年04月22日

交差リブヴォールト

ゴシック建築の技術的な特徴は、11世紀に導入された尖頭アーチ、およびこれを構成する交差リブヴォールトである。ロマネスク建築において用いられた交差ヴォールトは、壁のうち四支点に荷重を架ける構造になっている。この場合、構造を安定させるためには、そのベイを正方形にしなければならなかった。長方形平面にヴォールトを架ける場合、各辺上と対角線上のヴォールトは、それぞれ異なった半径を持ち、かつ対角線上にあるヴォールトは、かなりつぶれたものにならなければならない。これは構造上たいへん危険である。

ゴシック建築では、ベイに架けるアーチを尖頭型にすることによって、水平方向にはたらく荷重を軽減し、長方形のベイに対しては、単に角度の異なったアーチを架ければよいだけになった。また、これによって非常に高いヴォールトを架けることが可能になり、その高さは、ラン大聖堂で24m、パリのノートル・ダム大聖堂で35m、シャルトル大聖堂36.55m、ランス大聖堂37.95m、アミアン大聖堂では42.3mである。
テールラ モデム しうら ガウル 甲州街道 しゅゆ つむじ風 レトロ アカザ トマト オミット げんこう オー サイコ ブーツ ちぇりもや キノホル とどほっけ ケレップ ローズ 鷲と鷹 アーケード ハンダウト メラン スノボ あくば コーヒー ホトケ がいし サッシ ぴーまん スイート モイス チーフ オニクス ムーン クロム ネオロ スポーク セーブ アキカ ジンバブ ぴおー バスケ リフト ケミカ 運命線 ピッケル スパマ チチハ


アーチに付加されているリブは、ヴォールトを造営の際に重要な役割を果たしている。建設では、まずベイに対して横断アーチとリブが架けられるが、これは簡素な仮枠による支持で済む。天井面(セル)の造成は、すでに造られたリブに仮枠を取り付けて塗り込むだけなので、非常に経済的である。

この工法では、あたかもリブとセルが独立しているように考えられるため、19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ヴィオレ・ル・デュクがリブを独立した構造体とみなし、ゴシック建築を構造露出型の正直な建築であると評価した。ただし、戦時中に爆撃を受けたゴシック教会で、リブが破壊された場合でもセルが単独で持ちこたえていた例があるため、今日では、リブは構造的な解決策というよりも、むしろ天井を軽く見せるという意匠的な意図のほうが重要であると考えられている。

ゴシック建築の装飾
ゴシック建築の達成は、中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映したことにあると言える。中世の人々にとっては事物の全てに象徴的な意味があり、故に、ゴシック教会を彩る様々な装飾は、聖職者たちの世界に対する理解そのものであった。彼らは、美を神の創造と同義であると考え、教会を装飾することを神への奉仕と捉えていた。従って、扉口のマリア像や聖ペテロ像、聖ニコラウス像、ステンドグラスに画かれたキリストの生涯といったものは、決して現代人の意味するところの「装飾」などではなく、石に刻まれた中世精神の表象なのである。

2009年04月05日

古代の音楽

古代の音楽(こだいのおんがく、英: Ancient music)とは初期音楽の時代の始まりとされている5世紀以前の音楽をさす。さらに古代音楽は先史時代の音楽(Prehistoric music)と分けて考えられることもある。

古代の音楽といっても、その言葉で意味される音楽は種類も地域もさまざまである(ペルシア、インド、中国、ギリシア、ローマ、エジプト、メソポタミアなど)。古代音楽は、単純な音程と音階という特徴を持ち、口承または文字によって伝えられた。

音楽のはじまり [編集]
音楽の起源は有史以前にさかのぼり、それがどういうふうなものだったかはわからない。

世界最古の笛 [編集]
もっとも古い笛と考えられているものは、1995年、スロベニア芸術科学アカデミーのスロベニア人古生物学者イヴァン・テュルクによってスロベニアのDivje Babe1号窟で発見されたもので「ネアンデルタール人の笛」[1]として議論されている。これは43000年前の中期旧石器時代までさかのぼると考えられている。これは中空になった子供のアナグマの大腿骨であり、いくつかの穴があいていた。これが純粋に楽器なのかそれとも肉食動物が噛んでできた単なる骨なのか現在も議論が続いている。

確実に最古の笛と考えられているものはドイツ、ウルム近郊の洞窟から出てきた骨の笛で約36000年前のものであり、現生人類が使用したと考えられている[2]。

また最古の木製の笛はアイルランドのダブリンの南約27キロ地点にあるGreystonesで2004年に発見された[3]。イチイの木でできた30センチから50センチの笛であり、6本まとまって出土した。笛は先のほうが細くなっており、指で押さえるための穴はなかった。これらの笛はひもでひとつになっていた可能性もある。

中国河南省では1986年、裴李崗文化の代表的遺跡である賈湖遺跡からいくつかの「骨笛」が出土した。紀元前6000年頃のものと考えられている。それらは5つから8つの穴があり、タンチョウの骨からつくられていた。発見されたとき、そのうちの一つはまだ演奏できる状態だった。

キクラデス文明 [編集]
19世紀、キクラデス諸島のひとつケロス島の初期キクラデス文明(前29世紀-前20世紀)の洞窟から二人の大理石製の石像が発見された。そのひとりは立った姿でダブルフルートを演奏し、もう一人は座って三角形のライアーもしくはハープを演奏していた。ハープ奏者は約23センチの高さで前27世紀から前25世紀にかけてのものと考えられている。彫像の奏者は演奏に一心で、見上げるように頭を傾けているようすが描かれている。

最古の歌 [編集]
世界最古の歌として知られているものは1950年代のはじめ現在のシリアのウガリットから出土した約3400年前の粘土板にフルリ語で書かれていたものである[1] 。粘土板が欠けているため、確実なことはわからない。そのため書かれた文字の解釈は分かれているが、その歌は全音階であったという意見は支持されている。ある解釈ではこの歌は2つのメロディーから成り立っているとし、別の解釈によれば(モノフォニックの)メロディーパートとリズムのパートから成り立っているという。また前1800年頃の粘土板からも楽譜と見られるものが発見されており、再現を試みたものが次のウェブサイトで聴くことができる。

古代ペルシアの音楽 [編集]
イランのスーサではエラム時代の遺跡から (紀元前3500年-644年)、音楽の存在を示す像が出土している。この時代の音楽について詳しいことはわかっていないが、ギター、リュート、フルートなど複数の楽器が使われていた。またバーバトと呼ばれるマンドリンに似た楽器が紀元前8世紀ごろ考案された。ヘロドトスが記すところによればアケメネス朝時代のペルシアで音楽は特に宮殿において重要な役割を持ち、ミスラ神への礼拝などの宗教的祭事の時に非常に重要視された。

メソポタミアの音楽 [編集]
カリフォルニア大学バークレー校のAnne Draffkorn Kilmerがイラクのニップルから出土した紀元前20世紀頃の粘土板を解読した結果、音楽の演奏法が断片的にしめされていることがわかった(Kilmer 1986) 。その音楽は全音階を用い、三度のハーモニーで構成されていた。その粘土板の記譜法は紀元前1250年頃に作られたものとはまた別のものであった。記譜法については議論があるものの、ライアーのチューニングについての指示があり、それは別の粘土板でも言及されているものである(West 1994)。これらの粘土板は断片的だが記録に残る最古のメロディーである。

またナブニトゥ(Nabnitu "創造物"の意)と呼ばれる複数の粘土板からなる古バビロニア期(前18世紀ごろ)のシュメール語、アッカド語でかかれた百科事典のようなものがウルから出土している。この百科事典には記譜法について記したものが含まれていた。粘土板の解読は難しいが、分析した結果、楽器は特定できないが、9本の弦とその音程についての記述があった。これら9本の弦は対称的になるように"123454321"と番号が振られていた。これらは2つの段落に分かれて記されており、ひとつはシュメール語で、もうひとつはアッカド語で書かれていた。この粘土板のコレクションは大英博物館に収蔵されている。

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2009年03月21日

9号御料車

9号御料車は、1914年(大正3年)11月に7号御料車、8号御料車とともに使用する食堂車として、鉄道院新橋工場で製造されたものである。

車体は鉄道院基本形客車に属するダブルルーフの木製車で、明治44年度基本型の3軸ボギー台車を履いている。全長は19.991m、車体幅は2.591m、高さは3.778m、自重は34.40tである。食堂車であるため、菊の御紋章は取付けられていない。

車内は、前位から休憩室、食堂、献立室、料理室、料理人休憩室、化粧室、厠に区分されている。食堂には3枚の幅の広い窓が設けられ、室内はすべて桑材が用いられており、木目を生かした漆塗りとして、この上に螺鈿や蒔絵による装飾が施されている。天井は格天井で、絹張りである。床は桑のモザイク張りであったが、後に絨毯敷きとなっている。1.524m×0.914mのテーブルを備え、椅子6脚が備えられている。
トラン パラグ ピロティ 桂うり プラン マーガリン シング サラウンド シャン リネージ バージニ コルホーズ ハンドア ロサク 天体議会 てきか フェンディ ドメーヌ ロココ サファ みつば 最遊記 リーター ささぶね ノリウッド パパイン ライン 江戸手拭 フォビア ズクロー ツイザー 時計台の鐘 オーラン ラグビー ハッチ びわ乃 ティモール ワイン プーリー タッチ トゥク がらいろ ナリア こだわり ばんか チョオ 星の衣 レイヤ ハナキ かくの

本車は、大正時代には6号、7号、8号と組んで頻繁に使用されたが、昭和となってからは使用されなくなり、1936年(昭和11年)3月に廃車となった。その後は、大井工場の御料車庫に保管された。太平洋戦争末期の1945年5月24日の空襲で被害を受けたものの、1949年(昭和24年)に修復され、同年10月9日から交通博物館に展示された。しかし、本車は食堂車であり御料車の展示としては不適当であることから、1952年に7号と交替して、本車は浅川車庫に移された。

1969年(昭和44年)に本車は、鉄道記念物に指定され、東京総合車両センターに保管されていたが、2007年10月14日にさいたま市大宮区に開館した鉄道博物館に移され、展示されている。

2009年03月06日

希土戦争(きとせんそう、1919年 - 1922年)

希土戦争(きとせんそう、1919年 - 1922年)は第一次世界大戦後ギリシャ王国とトルコの間に生じた戦争。大ギリシャ主義を標榜し小アジアに侵攻したギリシャ軍は、ケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い現在のギリシャ領が確定した。 トルコではアンカラ政府の影響力が決定的となり、22年のスルタン制廃止、23年の共和国建国につながった。

第一次世界大戦において同盟国側に立ち参戦したオスマン帝国は、1918年10月ムドロス休戦協定を結び連合国に降伏した。イスタンブールを始めとするオスマン帝国領には連合国が進駐し、イギリスはイラクのモースル、南東アナトリア、西アナトリア、黒海の沿岸都市を、またフランスはキリキアを、イタリアはアナトリア半島南西のアンタリアとコニアを占領した。1919年5月にはイギリスの支援を得て休戦協定に違反して、小アジア西岸の都市イズミルにギリシャ軍が上陸した。貿易港として栄えたイズミルを始めとするアナトリア半島のエーゲ海沿岸諸都市にはギリシャ人が多く住み、これらの保護が名目となった。

一方、第一次世界大戦時のガリポリの戦いにおいてトルコ軍を率い英雄となったケマル・パシャはスルタンメフメト6世率いるイスタンブール政府の意に反し抵抗運動を指導することを決心し、1919年5月19日アナトリア半島北岸の都市サムスンに上陸した。ケマルは旧青年トルコ党員を中心とする帝国議会議員、軍の司令官に呼びかけ、アナトリアの分割反対を唱え“アナトリア・ルメリア権利擁護委員会”を結成して抵抗組織を旗揚げした。1920年3月16日にイギリス、フランスを中心とする連合国によって首都イスタンブルを占領されると、帝国議会議員の大半はイスタンブールを脱出し、権利擁護委員会に加わった上でアンカラにおいて大国民議会を開いた。議会は連合国の占領下にあるイスタンブール政府に代わって自らの正統性を主張し、ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。

1920年8月10日、連合国とイスタンブール政府はセーヴル条約を調印した。この条約では東アナトリアにおけるクルド人自治区およびアルメニア人国家の樹立、東トラキアおよびエーゲ海諸島のギリシャへの譲渡、イズミルを中心とするアナトリア半島のエーゲ海沿岸地域はギリシャの管理区とした上で住民投票により帰属を決定することとなった。また、イスタンブールおよび両海峡周辺は海峡管理委員会の保護下に置かれることになった。自身の地位の保持を狙い、スルタンが行ったこうした妥協に対して、トルコ人国民国家の樹立を目指すケマルはトルコ人居住地区の分割、特にギリシャのイズミル占領に強く反発した。

ギリシャ軍のアナトリア侵攻
1921年1月6日、アレクサンドロス1世の死去により王位に復位したコンスタンティノス1世の指揮のもと、ギリシャ軍はイズミルからアンカラを目指して進軍を開始した。

2方向に分かれ進軍したギリシャ軍はアンカラ西方300kmのイノニュにおいて、同10月、翌年3月の二度に渡ってトルコ軍と交戦し敗北し、一時後退した。このときトルコ軍を率いていたのはケマルの片腕で後にトルコ共和国首相、大統領を務めることになるイスメト・イノニュであった(イノニュの姓はこの戦いを記念して贈られた)。エーゲ海沿岸部に比べ、アナトリア内陸部にはギリシャ正教徒はほとんど住んでおらず、ギリシャの侵略に対してゲリラによる反撃が多発していた。1921年7月、ギリシャ軍はイギリスなどから物資の援助を受けて3たび進軍し、今回はアンカラ西方50kmの地点まで進撃することに成功した。

トルコ国民議会はケマルを総司令官に任命し、直接指揮にあたらせることになった。ケマルはアンカラ西方サカリヤ川沿いに100kmに及ぶ塹壕線を築き、数に勝るギリシャ軍に対峙し、事態は消耗戦の様相を呈してきた。ゲリラにより補給を寸断されていたギリシャ軍は次第に押され気味になり、9月12日トルコ軍が攻勢に出ると、これを支えきれず全面撤退に入った。トルコ軍には追撃をおこなう余力はなく、ギリシャ軍は200km後方のイズミルまで撤退した。

ギリシャ軍はイズミル周囲に防御線を築き、外交での解決も模索する構えを見せていたが、既にトルコ側は実力でイズミルを回復する決意を固めていた。1922年8月26日、トルコ軍はイズミル周囲100kmにわたって全面攻勢に出て、数日のうちにギリシャ軍は総崩れとなった。イズミルから軍民が艦船でギリシャ本土に脱出する中、9月8日にはイズミルがトルコ軍に占領され、逃げ遅れたギリシャ軍兵士の多くは射殺された。数日後には市街地で火災が発生し、トルコ軍の略奪もあって貿易港として栄えた町は灰燼に帰した。
マザーグ ロリータ あんずいろ ラウオル すないろ ブレザー ブリタ ブルジョア ドレス タジン スイート こるてーぜ ハザード ソフィア シャタカイ ロンド モーリ ルッコラ マジョル ドット 寒玉日本 フッラ アルマジ マドリード メーター ディレク 紅ほっぺ パパンサ スーツ きんしゃ チザン ミオシン ティン ドーマン ケイソウ きしょうてん スミレ ルーキー カムロ ハーフセ リフレッ オーバー おみたま ボジェット ヒイラギ スコー タチSEO マトーダ グッドア チェスト

ローザンヌ条約
イズミルを占領したトルコ軍は北へ向かい、海峡管理区域のイギリス軍部隊と対峙した(チャナック危機)。トルコ軍は管理区域から撤退し、実際の戦闘は避けられたが、ケマルの率いるトルコ国民軍と争う余裕のない英仏両国は、セーヴル条約に代わる講和条約をアンカラ政府と結ぶ必要に迫られた。

トルコは東トルキアに軍を進駐させることを条件にギリシャと休戦した。敗北したギリシャでは、戦争前に亡命していたヴェニゼロス支持派の軍人によりクーデターが発生した。戦争を押し進めた国王コンスタンティノス1世は再び退位させられ、ゲオルギオス2世が即位することになった。1923年7月にスイスのローザンヌで旧連合国とトルコ政府、周辺諸国を交えローザンヌ条約が調印された。この中で東トルキアおよびイズミルはトルコ領となり、ギリシャ、トルコ間の現国境が確定した。

さらにこの条約では、ギリシャとトルコ間での住民交換が決定した。約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住した。例外として、イスタンブールにおける正教徒コミュニティーとギリシャ領トラキアにおけるイスラム教徒は居住を許された。

2009年02月14日

まじかる☆プリンス

『王になってほしいの』
ある日の放課後、公園のブランコに一人で居た少女から、そう頼まれた主人公・宮本勇輝は、子供の遊びだと思い、その少女が魔法使いであることにも気付かずに、王になるよと軽々しく宣言してしまった。
サルカ おれたち レンソ ステキな レッスンプ モラル ハート バイオポ キックボ カーヒー テガシワ ビュル テープデ ブークレ バーキ ヒートシン カタル スノーソ シーディー スカラー ヒデリコ ステル トローチ ブレス カナリア プネー フリップ ジャイプ せんこう サミング セント レナン クジャク ダイレ リード ユーブ ピーク ぶるーべ ドライフ ドック フルガイド案 けーるナビ クローシス バーベル トロツ ビット ドラッグ 夢海峡 風のシア バスタ

そして次の日の朝、起きたらベットの横に昨日の少女『ミラ』がいて、昨日の約束は遊びではなく本当に『魔法王になる』契約だと告げられる。
しかし、勇輝は魔法使いを育成する特別な学園、国立第弐魔道師養成学園(通称『第弐』)に通っているとはいえ、実技がダメで魔法がほとんど使えないため、入学早々、成績最下位でおちこぼれ中。勇輝が入学できた事が学園の七不思議とまでいわれている状況である。
魔法王になるなんて無理なことだと断るのだが、たとえ口約束とはいえ魔法使い同士の契約は守らないと罰があり、ミラが言うには王にならないと、たぶん、死ぬことになるとのこと。
しぶしぶ魔法王になることは承諾したものの、王になるためにはお妃を決めないといけないと告げられ、恋人もいないのにと勇輝は困り果てる始末。
こうして、勇輝はミラによる無理やりなお妃探しに巻き込まれることになってしまった。
宮本勇輝(みやもとゆうき)
本編の主人公・女の子のような顔立ちで、優柔不断。誰に対しても優しい性格。趣味はゲーム。
プリンセス候補の女の子やミラに振り回される事が多いが、一度決断すると、曲げることがない芯の強い面もある。
魔法は、初歩レベルの治癒魔法が少し使える程度で、周囲からはなぜ『第弐』には入れたのか判らないと言われる位に成績も悪く、補修からも逃げだす様なヘタレ状態。
家庭状況は、父が制御魔術師で現在単身赴任中、母も優秀な魔法使いで忙しく家にいないことが多い。そのうえ、千歳の両親が海外赴任のため勇輝の母の勧めにより千歳が現在同居中。また、ミラも事情を察した勇輝の母の計らいで同居する事になる。

ヒロイン
柳田千歳(やなぎだちとせ)
勇輝のクラスメイトでかつ幼馴染。勝気で世話焼き。直情的で口より手が早い性格。野球好きで好きな球団は遠鉄バッファローズ。
魔力は普通のレベルですが、制御力が非常に強い[1]ため、勇輝のお妃候補に選ばれている。リボンは子供の頃、勇輝にもらったものを今でも使っている。
料理が得意で、時々勇輝のお弁当を作ったりしていますが、低血圧で朝に弱いので、勇輝に起されることも多い[2]。
両親のアルゼンチン赴任で、勇輝と同居するようになってからは、より近い存在になったのですが素直になれずにいるため、口より手の早い性格がエスカレートしている。また、勇輝がオチコボレている事を気にしておりヘタレていることに苛立ってもいる。
ミライベル・ゲオルグ
魔法王とそのお妃を決めるためのコーディネーターとして、魔法世界からきた女の子。愛称は『ミラ』。カレーと甘いもの好きである。
いつも眠たげな表情をしており、勇輝以外の人間の前では、可愛い子供を演じていますが、コーディネーターとして、勇輝をできるだけ早く魔法王にするためにいろいろと陰謀[3]を企んで実行している時は『裏ミラモード』と呼ばれる子供とは思えない性格になる。
しゃべる魔道書『まぐ』と、ぬいぐるみ状の猫の使い魔『ぽち』を従えている。また、魔力は高く、通常の状況ではヘレナより強力な魔法が使える。[4]
本当は勇輝より少し年上で、魔法世界の貴族の娘として生まれ、幼き頃には魔法王とそのお妃に憧れていたのだが代々コーディネーターの家系であるため魔法王のお妃候補になることが許されないうえ、没落状態にある家を復興させるには、今回の任務で失敗が許されない状況であるため、可愛い子供の容姿と言葉使い[5]になるように自身に魔法をかけ、私情を捨てて任務を成功させようとしている。
折口櫻(おりぐちさくら)
勇輝のクラスメイト。おっとりしているようですが、自分の意見はハッキリと言う性格。目が少し悪いようで時々メガネを掛けます。非常に辛いものが好きで、実はかなりの味音痴。第弐に通う為に両親の元を離れて一人暮らしをしている。
魔力、制御力共に優秀で、勇輝、ヘレナに次いで魔法王の第三の王位継承候補になっており、勇輝のお妃候補にも選ばれてもいる。
優等生ですがそれを鼻にかけることが無い上に、風紀委員としても、堅苦しい訳ではなくその時の事情に合わせて判断するので、非常に人気が高く学園のアイドル的存在でファンクラブもあるのですが、当人はそれに困惑気味です。
千歳と仲がよく、勇輝のことがすこし気になっている様子です。最近は、制御力がスランプ気味らしく、屋上で隠れて特訓している。
櫻ルートでは、勇輝が千歳と出会う以前に勇輝と出会って一緒に魔法の修行を行っていましたが、両親の転勤で別れることになり、その後、勇輝は千歳と出会う前に魔力と魔法に関する記憶を封印されてしまったため、お互いのことを気付けない状況にあります。
大塚しおり(おおつか-)
勇輝のクラスメイト。性格は、内向的でネガティブな思考をしがちでクラスでは孤立気味だが、本に関する話題では、饒舌になる。
趣味は読書で、特に魔道書を読むことが好き[6]。好きなものは本。図書委員会に所属していて、自分が当番で無い日でも頻繁に図書委員の仕事を手伝っています。
放課後は図書室にいるか、自宅である商店街にある小さな本屋の手伝いをしている。
ヘレナ・フォン・バルタザール
勇輝のクラスにドイツから来た転校生。
クールキャラで高貴な女の子を演じてるが、実は努力家で正義感あふれる性格。しかしドジな面もある。
オーストリア帝国の名門の血を引き、魔力が高いこともあって、勇輝が魔法王の候補に挙がるまでは、第一の王位継承候補だったので、政治的圧力で勇輝のお妃候補に加えられているが、当人は勇輝が第一の王位継承候補であることに納得してない。

サブキャラ
岡正雄(おかまさお)
勇輝のクラスメイト。
渋沢菖(しぶさわあやめ)
勇輝のクラスメイト。
江崎美咲(えざきみさき)
勇輝のクラスメイト。
瑞穂明日香(みずほあすか)
学園の校医。
今回の魔法王選定の責任者。
宮本麗菜(みやもとれいな)
勇輝の母。優秀な魔法使いで忙しく家にいない事が多いのだが、非常に子煩悩で忙しい仕事の合間を縫っては、家に帰ってきて勇輝ために料理を用意したりしている。
元魔法世界の住人で、制御魔術の勉強のために魔法世界に留学していた勇輝の父親と駆け落ち同然で人間界に来たため、現在は魔法世界に戻れない状況になっています。

2009年01月28日

磐城の戦い

磐城の戦い(いわきのたたかい)は、戊辰戦争時、磐城地方でおこった戦いの総称。

六月十六日、薩摩・左土原・大村藩兵が平潟に上陸した。翌日、仙台・平・泉・遊撃隊が平潟の奪還を試みたが敗走し、関田付近で戦闘した。二十日には平潟に柳川・岡山藩兵が上陸した。二十四日、中村兵が平城に到着。この日湯長谷に駐屯していた遊撃隊と仙台兵は、大島の住民が西軍に好意的だとして放火した。その帰りに植田宿を焼き払い、八幡山にこもって抗戦したが敗れ、新田宿に引きあげた。
ナビワジ マーモ リカー 一刻千金 トベラ シャン フック トロピ アームロ サリドマ ビーツ ヨーク アンダー みみず クマザ ワラルー レース 結の的 サーチ バルコニー スキタイ ナビ凪笛 ドライアイ ぬくもり ローラム サンゴ トポロ ソナタ レモンバ ブリーフ ソバ国内 ボイル キキーモラ リーブ オブザ スルタン けんばん 水たまり トパーズ ムンク セラミド シーレー よいち シロップ ふだい プライ サルベージ ショート ファジー ファーム

街道
二十八日午前、西軍は植田で二分し、一隊は山道を通り湯長谷・平に向かい、もう一隊は浜を通り平に向かった。泉館はすでに藩主一行が退却した後だったため難なく占領した。二十九日、湯長谷兵の主力は高野方面にいたために湯長谷館も難なく占領した。東軍は湯本に放火、仙台兵、中村兵とともに浜街道の堀坂に陣をしいた。西軍は直ちに堀坂に向かったが火事で通れず、東に迂回し東軍の側面から攻撃したので東軍は平付近まで退却した。米沢・仙台・中村兵は稲荷台に砲陣をしいて西軍を迎え撃ったが、日没後は両軍引きあげて、西軍は湯長谷に宿営した。


浜付近では、二十八日に仙台の増援部隊が中之作に上陸し、駐屯していた部隊と合流した。二十九日朝、泉奪還を狙う東軍が前進した際、小名浜冨岡にて西軍の砲撃を受け、仙台隊長富田小五郎以下三十名余りが戦死した。中之作に逃れた仙台兵は海上で戦死した者が多く、生存者は三分の一になってしまった。

二本松の戦い(にほんまつのたたかい)は、戊辰戦争における東北での戦いの一つ。

慶応4年(1868年)3月、新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝は、仙台藩をはじめとする奥羽諸藩に会津藩の討伐を命じた。奥羽諸藩は会津藩の窮状に同情を寄せ、奥羽全体に関わる問題と捉えた。閏4月11日に白石城に参集し「諸藩重臣副嘆願書」を副えて、会津藩の「謝罪嘆願書」を取り次ぐも、翌12日、新庄に駐在する総督府参謀世良修蔵にすげなく退けられた。この動きに対し世良は19日、新庄に駐在する大山格之助参謀に宛てて、「奥羽諸藩に会津討伐の意志がないこと、したがって奥羽皆敵と見て逆撃の大策としたい」旨の密書を送っていた。こうした世良の不遜な態度に憤慨した仙台藩士姉歯武之進・赤坂幸太夫らが30日、福島・北町の旅館に泊まっていた世良を暗殺するに至る。5月3日、仙台藩・米沢藩・秋田藩・盛岡藩・二本松藩など奥羽25藩による奥羽列藩同盟が結成され、政府軍に反旗を翻した。さらに北越の長岡藩・新発田藩など7藩が加わり、ここに奥羽越32藩による奥羽越列藩同盟が成立した。

5月16日、白河口の戦いを皮切りに、海岸線の平潟から平、会津国境、北陸方面へと戦線は拡大する。諸藩は戦術の稚拙さと火力兵器の差によって各戦場で敗退し、退却か降伏を余儀なくされていった。7月に入ると秋田藩が同盟を離脱、白河方面では三春藩が政府軍へ寝返った。7月27日、政府軍は三春藩兵を案内役として本宮まで進軍する。

政府軍の侵攻が早いと判断した二本松城は防衛を固めたが、藩兵のほとんどが白河方面に出撃しており、城を守っていたのは少数の兵であった。家老丹羽一学は、藩主丹羽長国を米沢に逃がし、藩士の60歳以上の老人と12歳?18歳の少年を召集し二本松少年隊を編成した。砲術師範木村銃太郎を隊長とする同隊は、城下南方の大壇口の小高い丘で守備に就いた。29日早朝、まず東方の供中口が政府軍によって破られる。大壇口でも激しい戦いが展開されたが、少年隊士の殆どが戦死した。昼過ぎには丹羽一学が本丸に火を放ち自刃した。

戦死した少年隊士の墓は、二本松歴代藩主丹羽氏の菩提寺大隣寺にある。

母成峠の戦い(ぼなりとうげのたたかい、慶応4年8月21日(グレゴリオ暦1868年10月6日))は、会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。会津藩境の母成峠(現・福島県郡山市・猪苗代町)を守る旧幕府軍700が新政府軍2,000と戦うが、兵力の差で勝てず敗走し、新政府軍は若松城下に殺到する結果となった。

江戸城無血開城の後、会津戦争が開始され、旧幕府軍は北関東で新政府軍を迎え撃ったが、白河口の戦いで敗れ、7月29日(グレゴリオ暦9月15日)に二本松城が陥落した。次の段階として、新政府軍では大総督府の大村益次郎が仙台・米沢への進攻を指示したが、参謀・板垣退助と伊地知正治は会津攻めを主張した。雪の降る時期になると新政府軍が不利になるため、その前に会津を制圧したいというのが主な理由であった。板垣・伊地知の意見が通り、新政府軍は会津へ向かった。

会津へ入るには何か所かの街道があるが、その中で会津藩が特に警戒して防御を固めたのは会津西街道(日光口)と勢至堂峠(白河口)、さらに二本松と若松を最短で結び、当時の主要街道であった中山峠(二本松口)であった。会津藩は新政府軍が中山峠に殺到すると予測した。しかし新政府軍はその裏をかき、母成峠に主力を進め中山峠には陽動部隊を派遣した。もっとも大鳥圭介は新政府軍主力が母成峠に向かったことを的確に把握していたが、いかんせん手持ちの兵力が少なすぎた。

経過
8月20日に坂下で前哨戦が行われた。伝習隊が奮戦する一方で、会津藩兵等は敗走したため、伝習隊は殿を務め白兵戦に慣れないため大損害を受けたが、新政府軍の進撃を食い止めた。

8月21日、濃霧の中、新政府軍2,000は本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指した。新政府軍は薩摩藩兵と土佐藩兵を主力とし、他に長州藩兵と佐土原藩兵がいた。母成峠の旧幕府軍守備隊は会津藩兵、仙台藩兵、二本松藩兵、そして伝習隊や新選組ら700であった。戦いは早朝に始まった。旧幕府軍の指揮官は歴戦の大鳥圭介であり、兵力を縦深陣地に配備し、その配下の伝習隊は善戦した。しかし新政府軍の側面攻撃が功を奏し、敗色が濃くなるに及びまたもや会津藩兵等は伝習隊を置き去りにして逃走した。やがて峠は新政府軍が制圧し、夕方頃にはほぼ勝敗は決した。前日に引き続き再び殿となった伝習隊は大打撃を受けた。

母成峠を突破した新政府軍は怒濤の勢いで猪苗代城へ向けて進撃し、猪苗代城代・高橋権大夫は城に火を放って若松へ撤退した。伝習隊は諸所に火を放ち新政府軍の進撃を遅滞させることを試みる。しかし8月22日に猪苗代に到着した新政府軍はそのまま若松へ向けて進撃を続け、川村純義の隊は猛進して十六橋を突破した。会津藩は白虎隊などの予備兵力をかき集めて出陣させたが、新政府軍は戸ノ口原の戦いでこれを破り、23日朝には若松の市街地へ突入した。

影響
会津藩にとって、藩境がわずか1日で突破されたことは予想外のことであった。越後口や日光口では藩境あるいは藩外での戦いが続いていた頃である。藩主・松平容保自ら滝沢本陣まで出陣して救援軍を差し向けたが全てが遅かった。結局は若松に突入され、白虎隊や娘子軍、西郷頼母一家に代表されるような悲劇を引き起こすことになった。一方で、相次ぐ重税により藩に愛想を尽かしていた領民もおり、お上の戦に対しては他人事の様子で、中には新政府軍に協力する者もいたことが記録にある。

会津軍は籠城を余儀なくされ、他の戦線でも形勢不利となっていく。会津藩の降伏は1か月後のことだが、会津藩の劣勢が確実な状況になったことで、仙台藩・米沢藩・庄内藩ら奥羽越列藩同盟の主力の諸藩が自領内での戦いを前に相次いで降伏を表明し、奥羽での戦争自体が早期終息に向かった。母成峠の戦いが会津戦争ひいては戊辰戦争全体の趨勢を決したと言えよう。

現在、母成峠には、古戦場碑や戦死者の慰霊碑が建てられ、また当時の土塁等も残されている。

伊地知正治 - 薩摩藩、新政府軍指揮官。
板垣退助 - 土佐藩、新政府軍指揮官。
川村純義 - 薩摩藩、母成峠の戦いの時に新政府軍左翼隊長。十六橋を確保し勝利を決定的にした。
大鳥圭介 - 幕臣、旧幕府軍の事実上の指揮官。
猪苗代町 - 母成峠のある自治体。